昭和51年05月29日 朝の御理解



 御理解 第63節
 「一粒万倍といおうが。一人がおかげを受けたので千人も万人もおかげを受けるようになるから、よい手本になるような信心をせよ。」

 よい手本をになるような信心をせよと。どういう信心を言うのだろうか。天地金乃神様のお心を心としての信心。天地の親神様のお心を分からせてもらう。天地の金乃神様がどういうお方であるかと言う事を分かって、その神様のお心に添い奉る生き方。そういう生き方を教祖生神金光大神の生きられ方。または信心の進められ方に神習っていくという生き方が、一番最高だろうとこう思うです。
 だからそういう最高のものでなくても、まぁ程度の低いところでよいといいやそれまでですけれども、せっかく信心をさせて頂くのですから、信心によって天地の親神様のお心が分かる、いうならば天地の大恩が分かり、天地の道理が分かる。人間は万物の霊長であるから万物をみて、道理に合う信心をせよと仰せられるそういう信心を、やはり目指し眼目にしなければならない。しかもそういう信心をです、教祖生神金光大神の信心のあられ方。求められ方、いわゆる実意丁寧神信心と言う事になりましょうか。
 そういう生き方を金光大神は、様々な角度から手掛かりを教えて下さいます。どうでもやはり金光大神のね、いうならば生きられ方というか御精神というものをです、そういういうなら真似でもさせて頂いて実意丁寧神信心、実意丁寧をもって只今申しますような、天地金の神様の心を心としていく生き方。それを最近は非常にこうみやすうここでは説かれてありますですね。
 天地金乃神様がいうならば、大きなお方であるならば、私共も一つ大きな心になろうと、まず焦点を置かなければいけない。ところが中々小さい。だから大きなおかげをやはり頂きたいなら、大きな信心をしなきゃならない。大きな信心をさせて頂くためには、なら心が大きく豊かにならなきゃいけない。また無条件に。天地の親神様は私共に無条件にそれこそ降る雨のように私共に御恩恵、お恵みをたれたもうておられるのですから、私共もやはり無条件の信心、無条件の奉仕と言う様な事が言われる訳です。
 いわゆる限りなく美しく限りなく豊かに、限りない信心の真を現していくというそういう生き方。しかもこれは私は初めて言っている訳ですけれども、それを教祖生神金光大神の信心の求められ方、生きられ方。に基ずいて信心の稽古をさせて頂く。そういう神様のお心をお心としての頂き方、大体それだけなんです。そういう信心が私はまぁは人の手本になるような信心。また手本になるような大きなおかげ麗しいおかげ。いわば無条件の生き方の出来れる事の素晴らしい事に、気が付かせて頂くだろうとこう思います。
 昨日は岩光の安東さんのところの謝恩祭でございました。あちらへ移られてもう3回目ですかね。あちらへ移られた年から謝恩祭をなさっておられますが、年々歳々まぁ今日の御理解から言うなら、一粒万倍のおかげを頂いておられます。そりゃ私が昨日あちらに参りまして一番始めに御神前で頂いた事は、もうそれこそ何というですかね。不動明王の姿を頂いた。そして次に取次ぎ者ということを頂いた。はぁこれは安東さんのお母さんのことですね。本当にやはり取次ぎ者精神とでも申しましょうかね。
 ここには参っては来ないけれども、あそこまでは参るという人が沢山あるということです。だから毎朝新たな方が参って来た、お供えやらお初穂やらはやはりここでお取次ぎをなされます。まるきり丁度いうならば支部というよりも教会のような感じです。だから家を空けられますと皆さんが大変困られるから、出来るだけこの頃も家を空けんようにしとるとこう言われる。こりゃあもう何十年間の御信心ですけれども、もういうならばまぁ本当に難儀から難儀の中を通っておられます。
 最近ではもうその何というですか。もうこんなに嬉しい事はないということは、御主人があぁして熱心に参られる。最近では一人息子の勇治君が毎朝いうならば親子三人。しかも今まではもう息子は右と願やぁ今度はお父さんは左と願うと言った様な生き方が、もう親子三人勇治君のお取次ぎを中心にして、もう実にあのう素晴らしいお取次ぎを願うて、毎日毎日の皆さんご承知の通りの信心が出来ておられます。そして幾人かにやはりお参りのあった方達のお取次ぎを、今度は安東さんが願われます。
 あちらへ来てからお参りをする。拝ませて下さいと言う様な事から、またお話しを聞くとが楽しみというて参ってこられる。もちろん合楽に導いて来られる事もありますけれども、合楽まではお参りしきらんからここまでお参りをする。そういう人達が昨日は勿論こちらからお参りする人達を合わせて、全部御用は殆どそういうあのう近所の、言うならば岩光の御信者さん方が御用を頂いております。ちょうど玉串が七十本出来ておりましたですから、やはり七十名からのお参りということになります。
 あの狭い所へそれこそ一杯のご参拝でございました。まさしく一粒万倍でしょうが。それこそ自分さえよければよいという、考え方の人が信心を頂いておってもですよ、自分さえ良ければ良いという生き方の中にです、世の人が助かり世の中が明るくなる事の為に私は精進をする、生き方を身に付けていきよんなさると言う事は、これは私は人に手本になる様な神心だと思いますね。どうでしょうか皆さんの周囲にです。何十年信心させて頂いておって、あなたの話を頂きたい。あぁた方のお母さんを拝ませてくれ。
 いうならば人の助かりとか、世の中のいうならばあのう村内の方達がその会合のなんかのある時に、もう非常に喜ばれるのそうです。安東さん方が出来てから、今まで妙なそのいろんな小村根性というて昔からいろんな人達がありますよ。そういうのが非常に少なくなってなくなった。もう実に円満なおかげを頂いておると言った様なお届けがあります。いうならば岩光地区全体の事を祈っておられるからです。
 だから自分が例え忙しかっても、お参りがあるとやはり一緒に御祈念をしたり、またお話しをさせて頂いたりしておられる。何十年間まぁ言うならば良い事はひとつもないという中にあってです、神様の間違いなさだけははっきり頂いていきよんなさるです。もうそれこそ何時の場合でもぎりぎりのおかげですけれども、何十年間いうなら楽な時と言うちゃ先ずなかったような感じで、もうお仕事の上にでもまた人間関係の上にでもです。今こそあぁして安東さんご一緒にお参りになりますけども。
 以前はもうそれこそお参りになったら、もう戸は締め切ってしもうてから、詰めだしとくと言った様な方だった。また場合によっては暴力を奮われる様な事もあった。その御主人が一緒に一生懸命お参りなるようになり。最近は一人息子の言うならば、勇治君が一緒にお参りをさせて頂いて、もう妙な男と私は思いよったところが、この頃とっても素直だなと思う良い青年です。
 そこで一家が勢を揃えての信心が出来て来る様になりましたからです、そういう言うなら人の手本になるような信心をさせて頂いておりますからですです。今一番始めに申しましたいよいよ天地金乃神様の心を心として、金光大神の生きられ方を身に付けて、いうなら金光大神の生きられ方、信心の進められ方を真似でもさせて頂いて、実意丁寧神信心が出来られるようになったら、いよいよ一粒万倍のおかげを頂いていかれる事になるだろうと思います。
 言うなら何十年間の信心でしょうけど、苦労のいうなら連続とも言うてもよいです。けれどもそこにです、これは安東のお父さんでもお母さんでもですけれども、もうギリギリ自分のめぐりの深さに、もう僻々とされるようなものを感じておられるように思います。確かにですね、そういう人の手本になるような信心でもしなければならない、と言う様な人の場合は確かにめぐりが大きい。自分は例えば食べる事に事欠いておってもです、人が食べられる事のために精進される。いうならば無条件の奉仕である。
 それにいよいよ天地金乃神様のお心をお心としてという、生き方を身につけて参りましたら、非常に素晴らしい事になりましょうね。なんとはなしに小さい村であればある程、新しく来た人なんかよそもんとして、あんまり敬愛させませんですね普通は。ところがもう本当に、あのうもう安東さんの場合それが反対です。もう村内の年寄り子供までが、あのうひたひたつ、まぁいうならば寄って来る集まってくるということです。村内でちょっとした困った事があると相談にみえる。
 勿論それをなら安東さんが一人纏めて毎朝お取次ぎを願われる。私共の場合には言葉ではっきり言うとですもんね、自分さえよければ良いと言った様な精神が、根底になっておるのじゃないでしょうかね。いうなら自己主義の信心ではないごとあるけれども、実際はなら私がおかげ頂きさえすれば、私が先ずおかげ頂いてと言った様なものがあるのではないでしょうか。村内の事なんて他人の事ならなんて。それではねやはりその手本になる信心とは言えません。
 どうれだけ熱心に信心が出来ておっても、そりは大した事はありません。信心の真を表すと言う事はです、私は言うならばそういう意味で安東さんの場合なんかはちょっとした手本だと思います。まだあちらへ行かれてから何十人のいうならば、人達が移り変わり毎日お参りをする。お野菜を持って来る人がある。はぁお世話になるけんというてお米を持って来る人もある。それこそ味噌醤油までまぁ持って来ると言う様な方達もある。
 ここは教会じゃないけん、」そげなん事はしなさらんでよかと言うても、やっぱりそういうおかげを頂きますから集まって来る。だからまたそれらの人達の事を、」いよいよお取次ぎを頂いて願われる。ならここ何十年間、言うならば私が昨日頂きました、不動の信心が出来られた。そして今申しますように、言うなら難儀から難儀をと、普通なら言うところでしょうけれども、難儀を難儀とあまり感じられないような生き方で、信心をいよいよ進めていかれる。
 おかげの方はいつも堂々回りのような感じだけれども、いうならば人が助かると言った様な事の意味合いにおいて信心が進んでおる。総信奉者が、総取次ぎ者という風な言葉がこの頃使われます。お道の信心させて頂く者一人一人が、取次ぎ者としてと、いうならば教師の資格を持たなくてもいうならば、有髪の尼であったりやはり一信者であるけれども、取次ぎ者と仏教の言葉に在家出家というのがあります。
 真宗、仏教親鸞聖人の教えが非常に広がったのは、そのう先日から申しますように、もう南無阿弥陀仏を唱えただけで、即身成仏が出来ると言った様な表現と同時にです、この在家出家というのが、沢山出来たからだと言われております。その村その村にですいわゆる中心になるような人達が、村に町にどんどん出来て行ったんです。坊さんではないけれども、お導きが出来ると言う様な人達が、沢山出来たと言う事なんです。しかもその人の周辺にです、いうならば一粒万倍のおかげを頂いていくのですから。
 それこそ大変な事になって、いうなら全国津々浦々に、真宗がその教えが広がったと言う事になります。お互い一つね言うならば在家出家であり、言うならば有髪の尼の自覚。私は総取次ぎ者というのは、そういうならその精神はどこに置かなければならないかというと。自分がおかげ頂きさえすればよい、自分が立ち行きさえすればよいと言う様な精神からです、人が助かる事の為の信心。
 いうなら信心の真をそこに現していけると言う様な私はおかげを頂くということがです、とりもなおさず信心の真を現すということ。安東さんの場合は何十年間続いたというのも、やはりめぐりのおかげです。あれがもう一辺にぱあっと楽になっとられたらあぁいう信心は生まれて来なかったでしょうし。勿論御主人が信心になられる事もなかったでしょうし、勿論息子も信心になる事はなかったでしょう。けれどもその難儀から難儀を不動の精神をもって、安東さんの信心が貫かれたところへです。
 いわばおかげを頂いて一家円満、勢を揃えてそれこそ手に手を取って、毎朝朝の御祈念にお参りが出来ると言う様な所まで、いうなら漕ぎ着けられたということです。決して生活が楽とは思われませんけれども、とてもとてもそれはそれは例えば、昨日のお祭りを拝ませて頂いてもです。それこそお供えといい御直会といい、もうそれこそどれだけお金が掛かっとるだろうかと言う様な感じのお祭りでした。
 だからもうこと信心の事にはね、損得を無視しておられる。自分な忙しいとかなんとか、忙しかってもならここは人が尋ねてみえるから、出来るだけ外に出らんごとしとると言った様な精進すらが、もう全く有髪の尼であり、在家出家であるということが言えます。いうならばあぁいう人達が沢山出来る事を、いうなら信奉者の全部が総、取次ぎ者ということになるのじゃないでしょうかね。
 とても自分だけが助かればよかと言う様な考え方が根底にある限りです、結局本当の信心とは言えないです。ただ自分の関係のある人の事は願うけれどもというのじゃなく、関係があろうがなかろうが、そこに難儀な人を見たら助かって貰わねば置けない様な心の状態が、育って行く事が信心だと私は思う。いわゆる神の心を心として行くと言う事はそういうこと。金光様の御信心はいわゆる、天地金乃神様のお心を先ずは知る事。そしてその神様のお心を心とする生き方をいよいよ求めていくこと。
 しかもその求め方が教祖生神金光大神が求められたような求め方に、神習わせて頂くということ。そういう信心を私は今日はよい手本になるような信心、しかもその芯が自分さえよければよいという、現代の人間気質とでも申しましょうかね、その事なんか自分さえよければよいというそういう考え方から、人が助かって行く事の為に喜び、楽しみを感じれるような信心をさせて頂く。そうしながら自分のめぐりにいよいよ取り組んで、お取り払いを願っていくという信心。
 昨日、安東さんところにある教会の御信者さんが、そこの教会の御比礼を願うて熱心に参ってきておられた、方達が、二、三人参っておられました。最近若先生が奥様をもらわれた。もうそれまでは本当に自分の教会はどうなるだろうかと言う様に、危ぶまれるような感じでした。私共が見てももうそんな感じでした。ところがおかげを頂いて奥様をもらわれたらもう二人見るように変わられて、熱心に教会の御用が出来ておりますという、お礼お届けがありました。
 それもやはり昨日ある教会の先生が結婚をされて、そしてあのうここに今後の事のお願いが書いてありますが、その中に二人の行く末をよろしくお守り下さいませ、お願い申し上げますと言う様な事が書いてございました。確かにです一人よりも二人になるところから、そこに主人として2と言うか、子供が出来たらまた父親としての自覚が出来て来るんです。自分の例えばお導きをさして頂くと言う事でもです。
 いうならばそこに一人よりも二人、三人よりも五人と言う様に、自分の周辺に助かる人達が出来てくるとです。そこに中心が責任を感ずるようになるです。それが素晴らしいです。それが取次ぎ者精神です。もうその人達の為に自分がどんどん変わらなければおられなくなってくるんです。そういう意味で私は一つ人の手本になるような信心を、いよいよさせて頂いて、一粒万倍のおかげを頂きたいと思いますね。
   どうぞ。